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2014年09月

道楽起業家、袁枚の豪奢な庭園生活 その8

袁枚は数多くの弟子を取りましたが、当然弟子からは授業料のようなものを取ったようです。


それがいくらぐらいは分かりませんが、弟子には江南地域の富裕な地域の子弟が多かったことや袁枚自身の知名度を考えてみても、決して安価なものではなかったはずです。


ある女性の弟子が「首飾りを質に入れて学費を払った」という逸話も残っています。


つまり、袁枚の主要な収入源はまとめると以下のようなサイクルを繰り返していたことになります。


富裕層の墓誌銘や伝記、書籍の序文を執筆する。
   ↓
まとめて書籍として出版して、知名度が向上する。
   ↓
読者が増えて、弟子も増える。


このいづれの段階でも収入が発生する上に、このサイクルを繰り返すほどに、収入がますます増加していくという善循環。


またこれだけにとどまらず、ただの浪費に思えた庭園の経営も実は恐ろしく功利的なものでした。

道楽起業家、袁枚の豪奢な庭園生活 その7

結論から言うと、袁枚は文筆業を主体とする起業家でした。


王族、高級官僚、富豪などの著名人が死去した際にその功績を讃える文章を墓誌に刻む習慣が古代から中国にはありました。


これが文才豊かな文人の主要な収入源であったことは以前に書きましたが、若年の頃から文才をもって世間に知られていた袁枚もこの商売に勤しみました。


彼の著作の一つ、『小倉山房文集』に収める文章の約3分1程度がこの類の文章です。あまりにも商売気がありすぎるというので、友人の中には彼を批判する人もいましたが、お金になる限り袁枚は気にもしなかったようです。


おそらく官僚生活を引退する頃には、すでに文筆業だけで生計が成り立つだけの胸算用はできていたのではないかと思います。


この富裕層向けの文章執筆業が最も主要な収入源の一つ。


また当時、書籍の出版は莫大な費用のかかる一大事業でしたが、一度版木が出来上がってしまえば、あとは売り上げさえあるのなら、量産が可能です。


当然その著作が大ベストセラーとなった袁枚は自家出版で利益を得るとともに、各地で海賊版までも流通するようになり、それが彼の知名度をさらに押し上げることになりました。


王族や高級官僚、文人は言うにおよばず、一般市民も多少の教養のある者は皆、彼の著作をむさぼるように読んだのでした。


晩年の頃には、高麗や琉球、イギリスなどの外国の使節団なども袁枚の文集を買い求めて帰っていくほど。


こうなるとさらなるビジネスの種が育っていきます。

道楽起業家、袁枚の豪奢な庭園生活 その6

ピカソのビジネスセンスを端的に表す逸話としてこのような話が伝わっています。


ピカソは小額の支払いであっても現金ではなく小切手で支払うことを好みました。


彼は当時から有名だったため、商店主は小切手を銀行で現金に換えないで直筆サインとして額に入れて飾っておくだろう、と考えたからだそうです。


前提として知名度やサインの芸術性などが必要ですが、これなどはただサインするだけで現金を生み出しているようなものです。


ピカソがこういうことやっていたと知ってましたか?


調べれば調べるほど、商才丸出しのピカソのエピソードはいくつも出てきて興味深いです。


ピカソは経済的に成功できたから、芸術家としても成功できたとも言えるかもしれません。


さて、本題について。


文人、学者、芸術家、みな素寒貧にはあらず。


時代や地域、分野とスケールの違いはあっても、袁枚もこの手のビジネスセンスに長けた文人だったようです。


では、袁枚が豪奢な庭園生活を送れたその収入源には一体どのようなものがあったのでしょうか?

道楽起業家、袁枚の豪奢な庭園生活 その5

突然ですが、ピカソとゴッホの共通点と違いって分かりますでしょうか?


もちろん両者に共通しているのは、美術の教科書には必ず出てくる歴史を代表する偉大な芸術家という点。


では両者の明確な違いとは?


答えは、ビジネスと投資のセンスの有無。


もっと端的に言うと、お金の有無です。


ゴッホは画商の弟テオの援助を受けながら、その生涯のうちに2000点の作品を残しましたが、生前売れたのはたったの一点のみ。極貧のうちにわずか37歳でその生涯を終えました。


その死後の作品の暴騰は、少しも彼の人生を豊かにすることはありませんでした。


一方、不世出の天才画家ピカソ。91歳で生涯を閉じた彼が、手元に遺した作品は70000点。

 
それ以外に数ヵ所の住居や、複数のシャトー、莫大な現金等々を加えると、ピカソの遺産の評価額は、日本円にして約7500億円にのぼったそうです。(もちろんこれは当時の評価額で、今だと一体いくらになるのか……)


ここで重要なのは、ピカソの作品はゴッホの作品のようにその死後暴騰を始めたのではなく、その生前から暴騰していたということです。


ピカソはかなり若年の頃から、経済的に成功した状態にありました。詳細についてはこちらの本が詳しいです。



道楽起業家、袁枚の豪奢な庭園生活 その4

詩人や文人が各地の名勝を巡って、昔の故事を踏まえて詩や文章を詠むというのはよく行われる文筆活動ですので、袁枚もその類の例です。


しかし、問題となるのは、袁枚は地方官のドサ回りが続くなど、思いにまかせない官僚生活に嫌気がさして、38歳の若さで引退して無職になっているという点。


つまり、広大な庭園を何十年にも渡って改築するだけでなく、愛妾を幾人も抱えて、美食三昧の日々を送る。それだけでなく膨大な量の書籍や骨董品を購入したり、全国各地を自由気ままに旅行したりするといった費用は一体どこから沸いてきたのかという疑問。


袁枚は高級官僚としての給料や役得でお金持ちになったのか?


どうもそうではないようです。


官僚の汚職は現代に始まったことではなく、古来より存在する根深いものですが、袁枚は汚職官僚ではありませんでした。


27歳で最初の地方官となったときに、袁枚の父はわが子の若さに心配して、赴任地までこっそり評判を聞きに行きましたが、非常に良くて安心したという話が伝わっています。


そもそも汚職官僚が収入の源となる官僚職を自ら辞めてしまうことはあるはずありませんので、袁枚の収入源は高級官僚の給料や役得以外にあったことは明白です。


ちなみに袁枚は放蕩三昧の日々を送ることによって何かバチでも当たったかというとそんなこともなく、唯一の欠点は生まれてくる子が女子ばかりで跡継ぎに恵まれなかったこと。


なんとそれも62歳のときにようやく男子に恵まれて、その子が結婚し孫が生まれるまで見届けて、この世を去っています。


色、食、物のすべての欲望を充足させながら、長寿と子孫にも恵まれるという欠けるところない人生を終えています。ちょっと憎たらしいくらいです。


さて、では袁枚の放蕩三昧の日々を可能にした収入源とは一体何だったのでしょうか?
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