カモネギFX

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2016年12月

再度、新興国株式へ乗り出す その10

中国滞在話が長く続きましたが、書きかけの新興国株式投資について、記事を完結させておきます。


ものの見事に中国の経済成長に乗り遅れたことを今回の中国出張で痛感させられたのですが、過ぎ去った時間を悔やんでもどうにもなりません。


それよりも今からでもできることはあるのか?邱永漢先生の話を参考にするとあります。


邱永漢先生は昭和29年から昭和47年までの日本で経験したことを昭和47年から約20年に渡って台湾で応用したそうです。


二十年たってみると、日本で起こったことがほとんど台湾でも起こり、お手本通りにやったことが、邱永漢先生に望外の富をもたらしたそうです。(『みんな年をとる』第五章「日本で起こったことは東南アジアでも起こる」)





邱永漢先生がその後日本や台湾で経験したことを中国でも応用したのは周知の通りです。邱永漢先生曰く、「これは虎の巻を見ながら、答案を書くようなものだ」と。


つまり、グローバル化の中で格差是正の高度経済成長は、ほとんどどこの国でも例外なく起こるので、中国列車に乗り遅れたとしても、また別の国の経済成長列車を探せばいいだけの話なのです。


ネット上の情報を見ていて一番有望だと思うのは、日本からでも容易に株式が買えて、自分が中国に初上陸した2001年当時かそれよりも少し前くらいの風景が広がっているベトナムです。

ワープアの中国滞在記 その22

余談ですが、白タクのおじさんの奥さんも教師で、彼が中学校の教師で月給100元だった頃、小学校の教師だった彼女は、それよりも少し月給が低かったそうです。


奥さんは今でも教師として働いていて、月収は4000元程度だそうです。


白タクのおじさんの車はトヨタのカムリで、日本で雲助と賤称されるような悲壮感は全くありません。悠々自適の自営業者といった感じです。1980年代の中国では、多くの人は月収100元に疑問を持つことなく生活していたのでしょうが、そういう時代にいち早く深センに行ったおじさんは普通の人よりも少し勇気があったのかもしれません。


中国火車旅行 (角川文庫)
宮脇 俊三
角川書店
1991-09



最近読んだ本で、1985~1987年の中国の列車旅行記が書かれているのですが、この中にも都市労働者の月給が80~100元程度という話が出てきます。


本で読んだ内容と自分が直接聞いた話が符節を合わせたように一致する。これも一種の学問ではないかと思い、ワープアに転落したとはいえ、今後はこういう方向で研究していきたいと思うのでありました。


さて、ワープアに転落してもう当分中国に行くこともないだろうと思っていたところに、期せずして中国出張の仕事が入り、6年ぶりに中国入りしましたが、今回感じたことは、ネットの情報網が発達した結果、もう中国に直接行かなくても中国のことはかなり良く分かるということでした。


それはつまり中国との比較で日本の状況もよく分かるということになるのですが、日本の中にいても意識だけはグローバル化して、隣国中国の恩恵をいろいろと受ける方法があるのではないかとも考えるのでした。


それについてはまたいずれの機会に。

ワープアの中国滞在記 その21

白タクのおじさんは最近十数年の中国の不動産市場の変化についても話してくれました。


「2000年代の初頭、100平米のマンションを4万元で広告を出しても誰も買う人がいなかった。ところが、今なら40万元のマンションでも広告を出さなくても売れるが、そもそも40万元ではもうマンションは買えない(苦笑)さらには、深センあたりでは10倍どころではないくらい値上がりしたマンションも多いよ」


「自分が広東の故郷でマンションを買った頃、階下の道路に止まっている自動車なんて全然なかった。しかし、同じ場所に今は隙間もないほど自動車が止まっているよ(笑)」


おじさんは「もー、発展のスピードが早すぎてついていけねー」といった話ぶりでしたが、2000年代前半というと、私が留学で中国に初めて足を踏み入れた時期でもあります。


この話を聞いて、私もまた大変なチャンスを逃したことを実感したのでした。日本にやってくる中国人研修生のごとく、職業など何でもいいから日本で働いて、中国株や中国不動産に投資していれば、今頃はワープアではなく、プチ小金持ちくらいにはなれていたでしょう。


しかるに私が当時やっていたことは、中国でかび臭い古本を片手に誰も読まない研究論文を書くといった一円の価値も生まない作業でした。


過ぎ去った時間は元には戻らず。では今からでもできることは何なのか?

ワープアの中国滞在記 その20

「1987年の頃、中学校の数学教師だった俺の月給は100元だったんだよ。たった100元の給料で何ができる?友達とちょっと食事に行けばなくなってしまう。彼女もできないし、結婚だってできない」


「だから中学校の教師は辞めて、深センの工場に働きにいったのさ。そうするといきなり給料が300元になった。さらに半年後には600元になった。当時としてはそれは大したもんだよ。これなら彼女とも付き合えるし、結婚もできる」


と、語り始めたおじさんの年齢は50代くらいでしょうか?とすると、中学校の教師は最初の就職で、すぐにやめてしまったのかもしれません。


それと、1987年の100元がどれくらいの価値があったのか、気になったので、後から調べてみました。


当時の為替レートはおよそ1元=38.85円。現行レートよりも1元の価値が高いですが、月給はたった100元なので、月収約4000円ということになります。


大の大人が一ヶ月働いてたった4000円。しかも学校の先生で。


当時の日本の物価と比較すると、1983年に発売されたファミコンの定価が14800円でした。さらには、1987年に発売されたゲーム『ドラゴンクエストⅡ』の定価が5500円でした。


当時、ファミコンは子供のおもちゃとしては高級な部類だったと思いますが、それにしてもファミコンのソフト一つ買えない月給で中国の成人が働いていたと思うと、グローバル化が進む前の世界とはいえ、凄まじい話だと思います。


中国人の月収が3~4万円だった時代は、10年近く前の中国出張に頻繁に行っていたサラリーマン時代に工場労働者の給与明細を見たことがあったので知っていましたが、邱永漢先生の本に「中国人の月収は1万円」とよく書かれていても、ホンマかいなと正直思っていました。


なぜなら、それは自分が直接見た時代の話ではないからです。


しかし、月収1万円どころか5000円もなかったことを語る人に今回間近で接して、邱永漢先生の本に書いてある話は確かに過去存在していた世界だと実感するようになりました。


もしその頃に、中国に何らかの形で投資できていたら、今頃我々は王侯貴族はオーバーでもプチ富裕層には簡単になれていたことだろうと思います。


日本人がファミコンで遊んでいる間に、絶好のチャンスは過ぎてしまったようです。しかし、それを「逃した」ということに気づけたなら、それはひとつの進歩ではないかとも思います。

ワープアの中国滞在記 その19

日本からの出張者を出迎えに、深セン空港まで白タクのおじさんの車に乗って向かっていたときのことです。白タクの運転手とは各種情報収集のためにいろいろと話をすることも多いのですが、そのときにはどういう話の流れになったのかは覚えていませんが、


「俺は昔学校の教師だったんだよ」


とおじさんがポツリともらしました。今はただのワープアとはいえ、昔は大学の研究職を目指したこともある我が身としては興味深々になり、いろいろと聞くことになりました。


なんで学校の先生が白タクの運転手になっているのか?


日本だと普通考えられないですよね。学校の先生からもぐりのタクシー運転手への転職なんて。


今はまた違っているかもしれませんが、十年以上昔の私の中国留学当時の印象だと、医者とか教師といった日本だと収入が高かったり安定している仕事の中国での待遇はあまりよくありません。


当時は立派な病院でも結構ガラガラでしたし、大学の先生たちも校内の外見はボロなマンションに住んでいました。(さすがに中はきれいでしたが)


私の指導教授の場合、基本的な古典文献は揃えていましたが、海外の研究書を買うことは難しく、そういうものは読まないで論文を書いていました。(中国古典の研究だから、それでも論文は書ける)


またグローバル的に見ると、医者の給料が高いのがどこの国でも当たり前ではないとすると、日本の医者の待遇は今後悪くなることもあるかもしれません。


当時は結構カルチャーショックを受けました。


さて、話を戻して、昔は中学校の数学教師だったおじさんが白タクの運転手にまで至った顛末とはいかん?
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