深谷さん一家が帰国したときには、既に中国残留孤児向けの帰国者支援が行われていましたが、深谷さんたちはそれについて知らされていなかったそうです。もっとも仮に知っていたとしても、それらはかなりお粗末な内容で、それだけではとても日本語の習得や日本社会への適応ができるようなものではなかったようです。


日本語がほぼできない状態ですので、深谷さん兄弟はかなり過酷な肉体労働に従事するしかありませんでした。


その後、両親の面倒を見ながら日本語の勉強をしていた妹も働きはじめ、かつ兄弟も新たに職場を変えたりして、年金の少ない両親への仕送りを行うことによって、なんとか深谷さん一家の日本での生活再建は進んでいったようです。


差別もいろいろあったようですが、中国で味わったそれに比べるとはるかにましだったとのこと。


日本語の不自由さは後々まで尾を引いたようで、日本に戻ってきて日本国籍にもなったから、日本人と結婚しようと思ったけれど、結局果たせず、兄弟妹相次いで中国の方と結婚したそうです。


救いと言えるのは、生まれた時から日本で育った深谷義治さんの孫の世代は、かなりいい大学に入ったりして、完全に日本社会に同化できていることでしょうか。


幼少期の教育環境は非常に大事だということが分かります。中卒だろうと、ワープアだろうと、日本の学校や日本の会社で知識や経験を積めたということは、グローバル的には希少な「技術」を身につけたということになるのですが、ほとんどの日本人はこのことに気づけないままでいます。