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歴史に学ぶ資産運用術

道楽起業家、袁枚の豪奢な庭園生活 その10

ぜいたくと言ってもその性質は様々で、袁枚が生まれる少し前に書かれた井原西鶴の『日本永代蔵』に記された贅沢で破産する町人の姿と袁枚のそれはかなり異なっています。


例えば、遊女に入れあげて湯水のようにお金を浪費するというのではなく、袁枚の場合は使ったお金が何かしらの形で自分の元へ循環して返ってくる投資やビジネスのように見えます。


著名な詩人が優美な庭園で美食に舌鼓ながら、数多くの愛妾や女弟子を従えている。


とは、一種の桃源郷のようなもの。


身分の高下を問わず、当時の人は皆一度は随園で接待されたいと思っていたとかなんとか。


実際随園には多くの文人や友人が招かれ、詩文の応酬も活発に行われましたが、これがさらなる文学作品の量産に貢献します。


表面上は浪費に見えて、その実、自分のビジネスである文筆業を強化するものにお金を投資していたと言えます。


大量の書籍を買ってもそれはただの道楽ではなく、袁枚の場合はメーカーが工作機械を買う設備投資のようなもの。


全国各地に観光旅行に行っても、ただの物見遊山に終わらず、現地で詩文の制作を怠らないため、出張工事でお金を取ってきているようなものです。


道楽と浪費と投資が渾然一体となりながら、なお富を増やし続けていくというサイクルを作る経済的思考力を持った稀有な文人であったと袁枚は言えます。

道楽起業家、袁枚の豪奢な庭園生活 その9

荒れ果てた南京の庭園を買い取り、『随園』と名づけて生涯その改修に励んだ袁枚。


ただの道楽に見えたこの改修作業も袁枚の優れた経済感覚から、決して浪費の類にはなりませんでした。


袁枚は随園に外壁を設置することをせず、人の居住地域以外は自由に外部の人が出入りできるようにしておきました。


否が応にも随園の名声は高まります。


それだけでなく警備の人員を置いていたわけでもないのに袁枚は盗難に会ったことがなかったそうですが、これは見物客が勝手に警備員の役割を果たしてくれていたものではないかと想像します。


まさに一石二鳥。


また随園の周辺の山林や田畑、池などを購入し、十三戸の人々に貸し与えて、地代を受け取るだけでなく、そこから得られる食料品も受け取っていました。


新鮮な肉や豆腐は外部に買いに行く必要があるけれど、それ以外は、ほぼ自給自足。


どんなに美食を尽くそうともお金が出ていくことはありません。


経済観念の異常に発達した文人であったと袁枚は言えます。

道楽起業家、袁枚の豪奢な庭園生活 その8

袁枚は数多くの弟子を取りましたが、当然弟子からは授業料のようなものを取ったようです。


それがいくらぐらいは分かりませんが、弟子には江南地域の富裕な地域の子弟が多かったことや袁枚自身の知名度を考えてみても、決して安価なものではなかったはずです。


ある女性の弟子が「首飾りを質に入れて学費を払った」という逸話も残っています。


つまり、袁枚の主要な収入源はまとめると以下のようなサイクルを繰り返していたことになります。


富裕層の墓誌銘や伝記、書籍の序文を執筆する。
   ↓
まとめて書籍として出版して、知名度が向上する。
   ↓
読者が増えて、弟子も増える。


このいづれの段階でも収入が発生する上に、このサイクルを繰り返すほどに、収入がますます増加していくという善循環。


またこれだけにとどまらず、ただの浪費に思えた庭園の経営も実は恐ろしく功利的なものでした。

道楽起業家、袁枚の豪奢な庭園生活 その7

結論から言うと、袁枚は文筆業を主体とする起業家でした。


王族、高級官僚、富豪などの著名人が死去した際にその功績を讃える文章を墓誌に刻む習慣が古代から中国にはありました。


これが文才豊かな文人の主要な収入源であったことは以前に書きましたが、若年の頃から文才をもって世間に知られていた袁枚もこの商売に勤しみました。


彼の著作の一つ、『小倉山房文集』に収める文章の約3分1程度がこの類の文章です。あまりにも商売気がありすぎるというので、友人の中には彼を批判する人もいましたが、お金になる限り袁枚は気にもしなかったようです。


おそらく官僚生活を引退する頃には、すでに文筆業だけで生計が成り立つだけの胸算用はできていたのではないかと思います。


この富裕層向けの文章執筆業が最も主要な収入源の一つ。


また当時、書籍の出版は莫大な費用のかかる一大事業でしたが、一度版木が出来上がってしまえば、あとは売り上げさえあるのなら、量産が可能です。


当然その著作が大ベストセラーとなった袁枚は自家出版で利益を得るとともに、各地で海賊版までも流通するようになり、それが彼の知名度をさらに押し上げることになりました。


王族や高級官僚、文人は言うにおよばず、一般市民も多少の教養のある者は皆、彼の著作をむさぼるように読んだのでした。


晩年の頃には、高麗や琉球、イギリスなどの外国の使節団なども袁枚の文集を買い求めて帰っていくほど。


こうなるとさらなるビジネスの種が育っていきます。

道楽起業家、袁枚の豪奢な庭園生活 その6

ピカソのビジネスセンスを端的に表す逸話としてこのような話が伝わっています。


ピカソは小額の支払いであっても現金ではなく小切手で支払うことを好みました。


彼は当時から有名だったため、商店主は小切手を銀行で現金に換えないで直筆サインとして額に入れて飾っておくだろう、と考えたからだそうです。


前提として知名度やサインの芸術性などが必要ですが、これなどはただサインするだけで現金を生み出しているようなものです。


ピカソがこういうことやっていたと知ってましたか?


調べれば調べるほど、商才丸出しのピカソのエピソードはいくつも出てきて興味深いです。


ピカソは経済的に成功できたから、芸術家としても成功できたとも言えるかもしれません。


さて、本題について。


文人、学者、芸術家、みな素寒貧にはあらず。


時代や地域、分野とスケールの違いはあっても、袁枚もこの手のビジネスセンスに長けた文人だったようです。


では、袁枚が豪奢な庭園生活を送れたその収入源には一体どのようなものがあったのでしょうか?

道楽起業家、袁枚の豪奢な庭園生活 その5

突然ですが、ピカソとゴッホの共通点と違いって分かりますでしょうか?


もちろん両者に共通しているのは、美術の教科書には必ず出てくる歴史を代表する偉大な芸術家という点。


では両者の明確な違いとは?


答えは、ビジネスと投資のセンスの有無。


もっと端的に言うと、お金の有無です。


ゴッホは画商の弟テオの援助を受けながら、その生涯のうちに2000点の作品を残しましたが、生前売れたのはたったの一点のみ。極貧のうちにわずか37歳でその生涯を終えました。


その死後の作品の暴騰は、少しも彼の人生を豊かにすることはありませんでした。


一方、不世出の天才画家ピカソ。91歳で生涯を閉じた彼が、手元に遺した作品は70000点。

 
それ以外に数ヵ所の住居や、複数のシャトー、莫大な現金等々を加えると、ピカソの遺産の評価額は、日本円にして約7500億円にのぼったそうです。(もちろんこれは当時の評価額で、今だと一体いくらになるのか……)


ここで重要なのは、ピカソの作品はゴッホの作品のようにその死後暴騰を始めたのではなく、その生前から暴騰していたということです。


ピカソはかなり若年の頃から、経済的に成功した状態にありました。詳細についてはこちらの本が詳しいです。



道楽起業家、袁枚の豪奢な庭園生活 その4

詩人や文人が各地の名勝を巡って、昔の故事を踏まえて詩や文章を詠むというのはよく行われる文筆活動ですので、袁枚もその類の例です。


しかし、問題となるのは、袁枚は地方官のドサ回りが続くなど、思いにまかせない官僚生活に嫌気がさして、38歳の若さで引退して無職になっているという点。


つまり、広大な庭園を何十年にも渡って改築するだけでなく、愛妾を幾人も抱えて、美食三昧の日々を送る。それだけでなく膨大な量の書籍や骨董品を購入したり、全国各地を自由気ままに旅行したりするといった費用は一体どこから沸いてきたのかという疑問。


袁枚は高級官僚としての給料や役得でお金持ちになったのか?


どうもそうではないようです。


官僚の汚職は現代に始まったことではなく、古来より存在する根深いものですが、袁枚は汚職官僚ではありませんでした。


27歳で最初の地方官となったときに、袁枚の父はわが子の若さに心配して、赴任地までこっそり評判を聞きに行きましたが、非常に良くて安心したという話が伝わっています。


そもそも汚職官僚が収入の源となる官僚職を自ら辞めてしまうことはあるはずありませんので、袁枚の収入源は高級官僚の給料や役得以外にあったことは明白です。


ちなみに袁枚は放蕩三昧の日々を送ることによって何かバチでも当たったかというとそんなこともなく、唯一の欠点は生まれてくる子が女子ばかりで跡継ぎに恵まれなかったこと。


なんとそれも62歳のときにようやく男子に恵まれて、その子が結婚し孫が生まれるまで見届けて、この世を去っています。


色、食、物のすべての欲望を充足させながら、長寿と子孫にも恵まれるという欠けるところない人生を終えています。ちょっと憎たらしいくらいです。


さて、では袁枚の放蕩三昧の日々を可能にした収入源とは一体何だったのでしょうか?

道楽起業家、袁枚の豪奢な庭園生活 その3

古代社会のことなので、袁枚にも妾がいたのは珍しいことではありませんが、妻妾の数は若年で亡くなってしまった者たちを併せて10名ほど。


これは姓名のはっきりしている者の数であって実際にはもっと多かっただろうといわれています。


また女性だけでなく、男色のほうもお盛んであったようです。袁枚と同時期の人であった曹雪芹の書いた『紅楼夢』にも少年のホモ話とかが出てくるので、性的嗜好としては当時あったものだと思いますが、男色で有名という文人は寡聞にして聞いたことがありません。


さらには袁枚は詩文の大家だったので、多くの弟子を取っていたのですが、そこに数多くの女性がいたことが当時としては異例でした。(まだ女性には学問など必要ないといった感覚の時代です)


今後もう少し深く調べてみようと思いますが、袁枚の周りにはとにかく女性だらけ、おまけにイケメンにまで手を出す色欲三昧の日々を送っていたようです。


袁枚の欲は食欲、色欲にとどまらず、物欲も盛んです。


彼は広大な庭園の中に膨大な書籍や書画、骨董の類を蓄えていました。中国の骨董サイトを見ると、袁枚旧蔵の銀瓶とか普通に見かけることがあります。贋物も混じっているかもしれませんが、膨大な骨董を蓄えていたことに加えて、日本で言えば江戸中期くらいの人ですから、現代に伝わっているものもかなり多いと思います。


広大な庭園の中で美女と美食に舌鼓ながら、詩文を詠んだり、風景や骨董を鑑賞する。


贅沢な桃源郷のような暮らしですが、それにも飽き足らず、袁枚は度々全国の名勝を求めて旅にも出ます。

道楽起業家、袁枚の豪奢な庭園生活 その2

古代と現代とを問わず多くの人が道楽によって身を滅ぼす中、道楽三昧の生活を送りながらも、その死後莫大な資産を残していたという稀有な文人が中国にはいました。


その名は袁枚(1716-1797)、清代の中期に活躍した文人です。


この人がどういう道楽三昧の日々を送ったかというと、ちょっと書くのに憚りあるようなこともあります。


まずは庭園いじり。


江寧(今の南京市)に随園という荒れ果てていた広大な庭園を購入し、まるで車好きが車でも改造するかのように、生涯をかけてその修繕と建築に熱中しました。


次には美食の追求。


中国の文人は高級官僚も多く、天下国家を論じたものや、そうでなくても各地の叙情的な風景を詩や文章に書いたものが多いです。






「うまいものの料理の仕方」を追求した書籍を残した文人なんて寡聞にしても、この人しか知りません。とはいえ、食べる方専門で、自分で料理するわけではありません(笑)


広大な庭園の中で美食三昧の生活を送っていると当然好色にもなります。

道楽起業家、袁枚の豪奢な庭園生活 その1

道楽は身を滅ぼす。


古くは福沢諭吉の『学問のすすめ』にもこう記されています。


古来、漢学者に世帯持ちの上手なる者も少なく、和歌をよくして商売に巧者なる町人もまれなり。これがため心ある町人・百姓は、その子の学問に出精するを見て、やがて身代を持ち崩すならんとて親心に心配する者あり。無理ならぬことなり。畢竟(ひっきょう)その学問の実に遠くして日用の間に合わぬ証拠なり。


耳の痛い言葉です。私も中国の古典を学ぶのに莫大なお金と時間を使いましたが、収入を得るという点では何の役にも立たず、ワープア労働者として社会の底辺をさまよっています。


福沢諭吉の言う「漢学者に世帯持ちの上手なる者も少なく」に露骨に当てはまっています。


さて、古代中国の文人というと、陶淵明のように困窮して「お金ないけど酒飲みたいよ」みたいな詩を作って、今日まで残る作品を残した天才もいますが、


一方、今日でいうところの政治家と高級官僚と芸能人と文化人を兼ね備えたスーパーマン的な人々も多く、資産形成が得意かどうかは別として、莫大な収入のある人も数多くいました。


唐宋八大家の一人として有名な韓愈なども高級官僚であるだけでなく、著名人が死去した際に墓誌に刻む文章を執筆することで、本業をはるかに上回る収入があったようです。


この高級官僚と文筆業を兼ね備えた文人は古代中国には非常に多く、彼らは超上流階級な人々なので、福沢諭吉が心配したような人々とはまた別の一群です。


さて、ここでまた一つ稀有な事例があります。


高級官僚の職を中途で自分から辞めてしまい、その後道楽の限りを尽くしたような一生を送りながら、なおかつ死んだときには莫大な財産を残していたという稀有な文人が古代中国にはいました。


この人の生涯を調べてみることは道楽で身を滅ぼしそうな自分にとっても何か参考になるところがあるかもしれません。
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