科挙に合格するためには膨大な量の中国古典を丸暗記しないといけません。


丸暗記と学術研究は相容れない火と水のような関係にあります。


丸暗記するのはそれを真理とみなしているからであり、そこに批判的、検証的な精神は存在しないからです。


中国の古代史は神話と史実が渾然一体となっていて、宗教的信仰のように妄信するものもいれば、逆にすべてを疑ってかかるものもいるなどという両極端な状況にあるのが、王国維在世の頃の中国古代史を取り巻く状況でした。


科挙に合格することしかなく頭になく、古典の丸暗記にすべての精力を使い果たしてしまう者、一方、さほど深く考証することもなく神話的伝承をすべて否定してしまう似非研究者とに分かれていたのです。


一方、カントやショーペンハウエル、ヘーゲルなどの西洋哲学を吸収した王国維は、実証主義的な視点に立って、そのどちらにも偏らない中庸的な立場を取ることができました。


いわゆる今日的な研究者、科学者のような視点で中国古典に対峙することができたのです。


今日の私たちから見ると別段珍しいものではないとしても、当時の中国を取り巻く状況からすると異例な精神構造でした。


そしてまたそこに新たな学問的潮流が起こってきます。