王国維も青年の頃、多くの中国読書人の例に漏れず、科挙に参加したことがあります。ただ、科挙の中の地方試験、郷試に合格できず、中途で断念しています。


暗記一辺倒の学問や形式ばった答案を作る技術を身につけるのに熱心になれなかったと後に述懐しています。


当時の社会的観点から見ると、王国維は秀才とはいえない読書人であったといえるでしょう。


ただ1905年に科挙が廃止されたことを考えると、科挙に熱心になるもののほうが本質的には馬鹿であったと言えるかもしれません。


中国近代の小説家、魯迅の著作に「孔乙己」という短編小説があります。


孔乙己という科挙に合格できず、役に立たない古典道徳知識をひけらかす割には窃盗を繰り返した挙句、最後には行方不明になった没落読書人の姿が描かれています。


1919年に発表されたので、社会的状況から見て、科挙も既になくなり、古典を学んで高級官僚になるという道は既に閉ざされたのに、昔の身分のしがらみを捨てられない没落読書人を嘲笑った小説です。


こういう社会的ニートは当時中国には数多くいたと思われますが、同じ科挙に合格できなかったもの同士とはいえ、王国維は天才学者の道を歩むことができました。


この差はどこから生まれたのでしょうか?