そもそも王国維の研究成果が今日の私たちから見て模倣不可能な領域まで達しているのは、その圧倒的な古典文献の素養にあります。


現代では教育が平均化されたので、昔の中国のようにもの心つく前から、膨大な量の中国古典を学び始めるという風景はもはやありません。


現代の教育体制下で、国語、英語、数学、理科、社会などの様々な学問を学ぶことは、一人前の社会人を育てる上では有用でしょうが、こういう教育を受けた場合、古典文献的な知識は古代中国人の足元にも及ばなくなります。


王国維の場合、科挙がなくなったために高級官僚になるための道は閉ざされたとはいえ、学者という職業を選ぶ場合、その古典的素養は社会的に生かす道があったということになります。


なぜなら中国古典文献を研究するための土台作りが現代では既に再現不可能な社会情勢になってしまったことを考えると、とてつもない希少価値があるからです。


また、王国維が生きていた時代には王国維以上に古典文献を読み込んだ読書人は数多くいたでしょうが、彼らと王国維との違いは、西洋の実証主義的な探求精神の有無にあります。


西洋の思想文献を広く研究することによって、王国維は暗記一辺倒の学問の呪縛から解き放たれて、今日の私たちと同じような研究精神を持つことができたのです。


古代人と現代人の長所を兼ね備えたために、王国維の学問はもはや模倣できる人がいない領域にまで達したのです。