ぜいたくと言ってもその性質は様々で、袁枚が生まれる少し前に書かれた井原西鶴の『日本永代蔵』に記された贅沢で破産する町人の姿と袁枚のそれはかなり異なっています。
例えば、遊女に入れあげて湯水のようにお金を浪費するというのではなく、袁枚の場合は使ったお金が何かしらの形で自分の元へ循環して返ってくる投資やビジネスのように見えます。
著名な詩人が優美な庭園で美食に舌鼓ながら、数多くの愛妾や女弟子を従えている。
とは、一種の桃源郷のようなもの。
身分の高下を問わず、当時の人は皆一度は随園で接待されたいと思っていたとかなんとか。
実際随園には多くの文人や友人が招かれ、詩文の応酬も活発に行われましたが、これがさらなる文学作品の量産に貢献します。
表面上は浪費に見えて、その実、自分のビジネスである文筆業を強化するものにお金を投資していたと言えます。
大量の書籍を買ってもそれはただの道楽ではなく、袁枚の場合はメーカーが工作機械を買う設備投資のようなもの。
全国各地に観光旅行に行っても、ただの物見遊山に終わらず、現地で詩文の制作を怠らないため、出張工事でお金を取ってきているようなものです。
道楽と浪費と投資が渾然一体となりながら、なお富を増やし続けていくというサイクルを作る経済的思考力を持った稀有な文人であったと袁枚は言えます。
例えば、遊女に入れあげて湯水のようにお金を浪費するというのではなく、袁枚の場合は使ったお金が何かしらの形で自分の元へ循環して返ってくる投資やビジネスのように見えます。
著名な詩人が優美な庭園で美食に舌鼓ながら、数多くの愛妾や女弟子を従えている。
とは、一種の桃源郷のようなもの。
身分の高下を問わず、当時の人は皆一度は随園で接待されたいと思っていたとかなんとか。
実際随園には多くの文人や友人が招かれ、詩文の応酬も活発に行われましたが、これがさらなる文学作品の量産に貢献します。
表面上は浪費に見えて、その実、自分のビジネスである文筆業を強化するものにお金を投資していたと言えます。
大量の書籍を買ってもそれはただの道楽ではなく、袁枚の場合はメーカーが工作機械を買う設備投資のようなもの。
全国各地に観光旅行に行っても、ただの物見遊山に終わらず、現地で詩文の制作を怠らないため、出張工事でお金を取ってきているようなものです。
道楽と浪費と投資が渾然一体となりながら、なお富を増やし続けていくというサイクルを作る経済的思考力を持った稀有な文人であったと袁枚は言えます。