項羽がいかに稀代の猛将でも広い中国全土において、その武力が発揮できるのは、点や線のような狭い範囲に限られます。


配下の武将が漢軍に討ち取られたり、謀略によって離反していくことによって、項羽自身に傷はつかずとも楚軍の勢力は徐々に弱まっていきました。


結局、項羽自身が漢軍にまともに敗北したのは、全国の諸侯が楚軍を倒すために集結し、漢楚の兵力数が絶対的に逆転した垓下の戦いのみでした。


しかし、垓下の戦いで敗れた項羽に再起の機会がなかったかというとそうではありません。垓下の漢軍の包囲網を突破した項羽は、烏江という長江の渡し場までたどりつきます。


船を準備して待っていた烏江の亭長(宿場役人)が項羽に告げていうには、「江東は小さいですが、土地は四方に千里あり、人口も数十万おります。大王よ、この地で王となられよ。この近くで船を持っているのは私だけなので、漢軍が来ても渡ることは出来ません」と。


このことから、既に全国民が漢軍の支持者になったようにみえても、まだ項羽には支持者が残っていたことが分かります。


しかし、項羽は笑ってこれを断ります。


「昔、江東の若者八千を率いて江を渡ったが、今一人も帰る者がいない。江東の者たちが私を憐れんで再び王にすると言ってくれても何の面目があって彼らに会うことができようか。例え彼らが何も言わずとも、私自身が恥ずかしいと思わずにはいられない」と。


この場面、いさぎよいようですが、立場を替えて劉邦なら迷うことなく、江東へ渡って再起を計ったことでしょう。


最初の一敗で屈した項羽に対して、負けても負けても懲りずに逃げ続けて再起を計った劉邦。


蘇軾の言う通り、極論するとその勝敗を分けたのは、ひたすら忍ぶ者と一度も忍ぶことのできない者の差でした。