このテーマでは最後になりますが、以下余談です。


現代日本における貧困の最大の原因は「働かない」ということに起因することがほとんどのようです。


まともに働いていて貧乏になるのはちょっと難しいくらい現代の日本は豊かになってしまいました。


今の日本人が「貧乏で……」とか枕詞にように使う場合は、その貧乏の基準が海外やあるいは昔の日本とはかなりズレていて本質を見誤りそうになります。


貧乏だけど、きちんと三食食べれていますよね。


貧困でも毎日同じ服を着ているわけではないですよね。


えっ、貧しいのにスマホやパソコンを持っているんですか?


等等。


最近は戦前や昭和初期頃のことについて書かれた本を読むことが多いですが、わずか百年も経ってない数十年前の貧乏がいかに現代のそれとかけ離れて本当に貧しいかに驚かされます。


本当に食べるもの着るものに事欠き、家族の誰かが病気になったら、一環の終わりだと怯えるような性質の貧乏です。


つまり、仕事があり余っていて人手不足の現代日本においては、とにかくなんでもいいから働いていれば、最低限の生活は保障されるし、仕事や投資で何度失敗しても、再起は可能であると気づけることが重要だと思います。


邱永漢さんの本を読んでいると、「労働貴族」という言葉が出てきました。

1997香港の憂鬱
邱 永漢
小学館
1997-03



中国が1980年に深セン市を経済特区に指定したときに、その給与の高さに労働者が殺到し、途中から入境の制限がされるようになったそうです。


つまり経済特区の中に先に入ることができたものは、「労働貴族」になったようなものであるということなのですが、まさに現代の日本人も似たような状況にあると思います。


しかし、狭い世界に閉じこもっていて、右も見ても左を見ても貴族ばかりいるとなると、誰も自分が貴族であるとは思わなくなるという現象が起こります。


そこを一歩踏み込んで、歴史とグローバルな視点から、自分たちが「労働貴族」であると気づけるならば、行動の選択肢が大きく増えるはずです。